2017年3月 5日 (日)

東京の「白山」


Photo ← 文京区白山5丁目の白山神社

小石川、というと、竹脇無我さんを思い出してしまいます。うなずいたあなた、私と同じ世代ですね。

私にとって小石川といえば「小石川養生所」しか思い浮かばない、ほかに何の印象も無い所だったのですが、数年前に、小石川という地名は加賀の石川郡に由来する、という話を聞いてから、俄然興味が沸いております。

小石川の地名由来について一般的には、小石の多い小さな川が何本か流れていたことから付いた、とされています。しかし、江戸幕府が編集した江戸の地誌「御府内備考続編」には、そのむかし加州石川郡より白山神社を勧請したことから小石川と呼んだ、と記されているとのこと。その「白山神社」は、現在、文京区白山5丁目に鎮座しています。

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 もともと白山神社が勧請されたのは本郷元町(本郷1丁目)の地で、天暦2年(948年)9月のこと。その後、江戸の2代将軍徳川秀忠が訪れた際に、この神社を足利尊氏が祈願所とした等の由緒に驚き、元和2年(1616)に小石川の地に移して敬ったそうです。

さらに4代将軍家綱の時に、後に5代将軍となる綱吉の屋敷を小石川の地に造営するため、白山神社は現在の場所に移されました。そのためか、綱吉と母の桂昌院は、特に篤く白山神社を信仰したといわれています。

 

文京区の「白山」という地名は、白山神社の門前町として村ができていった歴史を物語っています。その白山神社は、加賀の白山神社(現・石川県白山市の白山比咩神社)から勧請されたもの。つまり東京の「白山」のルーツは、石川県の白山にあるのです。

 

 石川県の白山比咩神社は、霊峰白山を神体山とする白山神社(全国に約3千社あるといわれます)の総本宮です。創建は2100年以上前と伝わっており、そんな遥か古代から、白山を霊峰と仰ぎ遥拝する人々の拠点があったことをうかがわせます。

 その白山に泰澄大師が登り、修験の山として「開山」したのが1300年前。今年は「白山開山1300年」を祝う催しが、白山麓の各所で行われます。この記念の年に、東京・文京区の皆さま、加賀の「白山」へお越しになりませんか?

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↑3年程前、東洋大学「白山祭」で配ってみた手作りチラシ

 

2017年2月26日 (日)

よみがえる山の魂 ~深瀬でくまわし~

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 今年(平成29年・2017年)、久しぶりに「深瀬のでくまわし」会場を訪れた。深瀬の檜細工の技を継承しようと頑張っていらっしゃるKさんから「でくまわしの練習を見に来て」と誘われたからだ。
 石川県白山市深瀬新町の「でくまわし保存会館」で、保存会長さんや事務局長さんから、でくまわし存続のために苦労されているお話を聞いていると、二十数年前にお会いした廿日岩(はつかいわ)さんのことを思い出した。保存会館には、亡くなった歴代太夫の写真が飾られている。そこに廿日岩さんのお顔もあった。

 廿日岩さんのお話をもとに、深瀬のことを調べた記事「よみがえる山の魂」(龍文社発行「リトルトリガー」1995年)を、ここに掲載する。

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よみがえる山の魂


手取湖

 金沢から鶴来街道を白山スーパー林道(注 現・白山白川郷ホワイトロード)へ向けて走り、勝山へ抜けるように157号線に沿って右へ曲がると間もなく手取湖に出会う。凍結さえ注意すれば冬でも何ら支障のない、除雪体制も万全の立派な道である。

 手取湖はダムのためにつくられた人造湖である。手取湖に限らず、山中に車を走らせると日本中でこのような人造湖に出くわす。これら人造湖の底には長い歴史を持つ村落が廃墟となって沈んでいる場合が少なくない。

 山に棲む人々人は川に沿って集落を形成した。川沿いのわずかばかりの平地が人が棲むのに適しており、そして同時に、ダムにとっても最適の地形だった。石川県の尾口村と白峰村(注 両村とも現在は白山市)にダム建設の話が持ち込まれたのは昭和41年のこと。翌年には水没予定の集落にダム対策委員会が組織され、調査や話し合いが重ねられた。

 住人の補償や移転先が決まり工事が始まったのは昭和49年。ダムは53年に完成。二つの村にまたがる巨大な手取湖は、翌年6月から貯水を始めた。


檜笠


 檜を薄く細い板にし、これを編んでつくる檜笠は尾口村の特産、というより今では民芸品のように紹介される。尾口村で他の二集落と共にダム湖底に沈んだ深瀬の集落では、以前は冬のあいだ村中が檜笠作りに取り組む産地であった。江戸時代のはじめに始まったと伝えられる檜笠づくりだが、昭和
5年には「深瀬檜笠販売購買組合」が結成され、その後は詳しい資料が残っている。

 昭和6年から水没するまでは、50数軒から70数軒と年毎に変動する村落のほぼ全戸が檜笠づくりに従事している。年間の生産量はおよそ6万枚から15万枚、まさに深瀬は檜笠の村だった。北陸三県の農家からの需要に生産が追いつかないことも多かった。

 檜笠は普段は風通しがよく、雨にぬれると材が膨らんで網目が締まる。また檜は油分が多いので雨をよくはじき、今でも人気が高い。山の産業として忘れられない焼畑(薙畑)でも、「火入れ」のときには顔を隠して熱さを防ぐ必需品だった。かぶってみると軽く、どこか安堵感がある。

 笠の原材料となる檜は、昔は近くにたくさん生えていた。深い山に生える、細くて曲がった建材にならない木で充分である。その檜が減ってきたため、明治初年からは越前(現在は岐阜)の石徹白村などから求めるようになった。昭和のはじめは奈良から買っている。

 ダム建設による移住とともに檜笠ををつくる人は激減した。今ではわずか34人。尾口村深瀬で作り続けているのは廿日岩仁吉さん夫妻だけになった。

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深瀬の村のくらし 

 廿日岩さんの家は水没した村落のすぐそばの高台の新住宅地に移った5軒のうちの一つ。大多数は鶴来、金沢などの平野部、町に移転した。以前の建物をそのまま高台に移した廿日岩さんの家の裏手からは水没した「故郷」をおおう湖面がすぐ下方に見える。

 水没する以前の深瀬は、手取川の支流、牛首川にそった細長い、小ぢんまりとした集落だった。

「慣れないものはびっくりすることもあったが、川べりに建つ家は水の音がさらさら、ごうごうと聞こえ、とてもいいものやった」

 廿日岩さんは懐かしそうに語る。

 昭和9711日、おおぜいの流出者を出した痛ましい大水があった。後々まで同日を水害祭として供養している。しかし、ふつうは洪水で浸水する家は決まっており、水が出そうになると道具を運ぶなど実に手際よく近隣の人たちで手助けをした。川が、生活の一部となっていた。

 昭和の頃の村の年中行事をかいつまんでみよう。新暦11日よりも旧正月を大切に祝う。大正10年の大火にちなんだ焼け祭り、春や秋(重陽)の節句、真宗の行事である「御忌」や「ほんこさま」「御仏事」、8月の新盆よりも9月の盆が盛大で、前日の宵盆を含めた4日間は大がかりな行事が行われた。その他お彼岸など、すべて自然に溶け込んだ旧暦中心で動いていく。

 死者が出ると、しきたりに従って葬儀が営まれた。それなりにある貧富によって、家の前の葬儀の飾りなどに差がつく。身分の区別というよりは、むしろ貧しい人が必要以上に出費をしなくて済むような知恵だった、という。そして村人全員が野辺に送る。

 だれが指導したというわけではないのに、深瀬の村は連帯感が保たれていた。二百人くらいの村の規模は、一体感をもって助け合って暮らすにはちょうどよいのかもしれない。庄屋を輪番にするという、その昔は画期的な制度をとっていたこともある。


鱒が踊る川

 

 主食は稗だったが、ふもとの鶴来で買った米を73に混ぜて炊いた。「うまいもんやぞ」廿日岩さんの言葉を待つまでもなく、焼畑の研究家なども山の農産物の美味しさを口を揃えて言う。稗や粟などは、大根などと同じく焼畑(薙畑)でつくったものも多い。

 夏は川に入って鱒を捕る。おもしろいほどよく捕れた。冬になる前に鶴来からにしんを買っておいて、大根に挟んでにしん漬けを作る。冬じゅう、それを食べていた。水がよい山では、堅どうふや味噌もうまい。

 熊をとるときのきまりもある。食用の肉だけでなく、内臓は大切な薬となり、毛皮も売れた。熊とりは大きな緊張感のなかで、何人もの人が、一心同体となって初めて可能な業だった。

 その習性をよく知っていた村人は、熊を捜して囲むと、息をあわせ絶妙の呼吸で声を出して威しながら山頂へ追い上げる。待ち受ける「鉄砲持ち」たちは、熊が23メートルのところへ来るまで身動き一つせず辛抱し、ぎりぎりのところで発砲する。鉛玉が2個入ったきりの、威力の弱い鉄砲である。


でくまわし


 深瀬の村では、毎年
130日は若い衆たちが集まって檜笠づくりで夜を明かした。この時ばかりは笠の代金は、そのまま自分の小遣いになった。夜通し笠を作りながら話すことといえば「でく」のこと。7日後にはでくを出すのだ。おのずと気分は高まる。「ぼくらみたいに好きなもんは、正月からでく出そう言うて年寄に叱られた」廿日岩さんは苦笑する。それだけ待ち焦がれた祭りだった。

 「でく(木偶)」というのは人形のこと。手も足も動かないでくは、役に立たない者の代名詞にされ、「でくのぼう」という不名誉な使われ方をする。しかし「でくまわし」のでくたちは、役に立たないどころか人々の暮らしになくてはならないものだった。

 一種の人形浄瑠璃である深瀬のでくまわしがいつ始まったのか、言い伝えによると、都から来た地方を巡業中の人形遣いの一行が伝えたものという。

 白山麓の人たちは冬になると関西方面へ出稼ぎに出かけたが、深瀬には檜笠という産業があったおかげで、冬も全員が村にいた。人形遣いの一行は他へ行っても観客がいないので深瀬に逗留、雪に閉じ込められて長の滞在となり、春になって帰るとき宿賃の足しにと人形を渡し、遣い方を教えた。

 こうして伝えられた「でくまわし」は、明治の初め頃までは新築や婚礼などお目出度いことがあった家で演じられた。その後、村の若い者たちが中心になって、毎年小正月の決まった日に、村の道場で盛大に行われるようになった。道場とは村の仏事が営まれる建物で、集会場の役割も果たしていた。現在の尾口村一帯は昔から浄土真宗の盛んなところだが、寺は一つもない。その代わり各集落ごとに道場があり、ここで日々の仏事が行われた。道場は村人たちの精神生活の拠り所ともなっていた。

 でくまわしは毎年2月の15日、16日、17日の3日間、夜7時から10時半頃まで行われるようになった。そのための稽古が、27日から14日まで毎晩行われた。檜笠づくりの仕事を終えて9時頃から道場に集まり、夜中まででくをまわす。古老たちが長年見てきた人形の動きと「古浄瑠璃」「泣きぶし」などど呼ばれる語りである。多くの目と耳で、正確に伝えられていった。

 女たちは舞台を飾る桜の花を白い紙でつくる。子どもたちは稽古の様子を眺め、昼は学校で真似をして遊んだ。この2月の十日間は、村中がでくまわしの雰囲気に包まれ、高揚した気分でいた。

 初日の15日は、午前中から舞台づくり。武者絵の額を掛けたり、白い桜の造花を飾ったり。外は二階までふさぐ雪だ。そして夜、本番。電気がない頃はろうそくの灯りで演じられた。

 高座で正装した大夫が、どこかなつかしい節まわしの「古浄瑠璃」を語る。素朴で単調な音の流れのなかに、耳について離れない何かがある。泣きぶし、という別名が似つかわしい。まわし手のどんどんと踏み鳴らす大きな足音とともに、横に長く張られた幕の上では人形が激しく舞った。小細工の利かない文字どおりの「でく」であるだけに、かえって迫力がある。道場中が、人々の熱気で特有な空気となっていた。

 17日、最後の演目が終わると、全部のでくを出して観客にも持たせ、歌に合わせて「でくのおどり」をする。さらに村人たちは道場いっぱいに広がって「千本づき」という民謡を踊った。

 深瀬の人たちは、このでくまわしによって絆を深めていた。


湖底に沈む村

 

 尾口村では、釜谷、深瀬、五味島の三集落が水没し、ダムによって孤立する鴇ヶ谷が廃村になった。村が造成したすぐそばの新住宅地に残ったのは深瀬の5戸だけ。あとは金沢や鶴来の町などへと散った。

 当時のダムについての補償交渉の過程も細かく書き残されている。「ただ反対すれば多額が取れるものでない。自己主張にも限度がある。最後の団結は心からの叫びであったのでないか。悔やみても悔やみたりない、いや忘却しよう。これからが出発である」最後はこんな感想で締めくくられていた。

 何百年にもわたる山の暮らしで自然と身についていた村の結束が、ダムによってたやすくこわれた。「ダムは人を悪くするもんやね」廿日岩さんの言葉が心に残る。ダムの起工式で当時の織田白峰村長は「多くの犠牲をはらってこの国家的大事業に協力はしたが、われわれはこの着工を心から喜ぶ気持ちにはなれない」と語っている。当時の村全体の感慨だっただろうか。

 深瀬58戸のうち、比較的まとまって移住したのは15戸。手取川の扇状地のその扇の要に位置する鶴来町の七原地区に「深瀬新町」が生まれた。そして、この新たな地で、三百年の歴史を持つといわれる「でくまわし」がよみがえった。


でくまわしの復活

 

 でくもまた、ダムと共に消える運命かと、人々は半ばあきらめていた。みなが散り散りになるのだから、でくをまわすといっても一体どこでどうすればいいのか……廿日岩さんはでくまわしの存続に賛同する青年たちとグループを作り、彼らに新たな地での再建を託したのである。

 昭和52年、深瀬新町で「でくまわし保存会」が再建された。保存会館も建てられる。そして同じ年、でくまわしは国の重要無形民俗文化財に指定された。翌年2月、移転後の第1回公演が行われ、でくは見事によみがえった。以降毎年上演されている。

 今年も218日の夜と19日の昼に深瀬新町ででくまわしが行われた。水没した深瀬の人たちが集まる。短くなった日程や演目、舞台装置など、昔どおりとはいかないでくまわしであるが、人形の舞いを食い入るように見つめる人、昔話に花を咲かせる人、古浄瑠璃を口ずさむ人、確かに今でもでくが深瀬の人たちの心をつないでいるのだと感じる。

 毎月第1・第3水曜日の稽古には、新しい町の人たちが加わり、本番にも参加している。子供の頃からでくと共に育った級深瀬の人に比べれば、古浄瑠璃の節まわしも人形の動かし方もまだまだ迫力不足であるが、しかし、その姿には好感が持てる。


山の魂


 「役場から援助のお金をもらえという意見もあるけど、金で壊れてしまうこともある。この先祖が残してくれたものを、壊すことはならん」廿日岩さんが執念をもって残そう、復興させようとしているのは、たんなるでくまわしだけではない。

 ダムが奪ったものは村であり、鱒が踊る川であり、そして純朴な人間関係だった。山の自然は、人と人の在り方を教える教師でもあった。廿日岩さんがでくで取り戻そうとしているのは、そんな人間関係である。一人一人の顔が分かり、欲もなく助け合った山の暮らし……。

 廿日岩さんとその家族に遭った人は、誰もが感じる、本当に温かい人たち、と。悪いものは悪いとはっきり言うが、攻撃はしない。人の心理をよく知り、悪用をしない。

 その吸い込むような目がきらきらと喜びを見せて輝く。ひょっとしたら、町の荒んだ人々の心を救うために山が放った魂かもしれない、そんなロマンチックな想像までしてみるのである。

 

 

2016年9月 4日 (日)

白山市尾添の下山仏

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↑加宝神社 2016年9月1日


 奈良時代の末頃からずっと、日本人は神と仏を混交して祀って来た。本地垂迹(ほんじすいじゃく)説といって、日本の神々は実は仏が姿を変えて現れたもの、という思想が平安時代以降広まったことが、神仏習合を一層強固にしていた。その本地垂迹説によると、白山の御前峰(ごぜんがみね)の神は伊弉冉尊(いざなぎのみこと)で、本地仏は十一面観世音菩薩。そして大汝峰(おおなんじがみね)は大己貴命(おおなむちのみこと)で阿弥陀如来、別山(べっさん)は小白山別山大行事で聖観世音菩薩、というふうになっている。

ところが明治になると、神道の国教化を目指す政府によって神仏分離令が発布された。神社に併設されていた寺院や仏像が破壊されるという廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)も盛んに行われた。石川県でも明治7年1874年、白山における神仏分離の指令が山麓の村々に発せられ、仏像の下山が命じられた。かくて7月5日、運搬作業が始まる。当初は3日間で終える予定が、豪雨に見舞われて9日もかかり、村人たちは仏さんの祟りだと噂したという。

現在観光客も多く訪れる白峰の林西寺(りんさいじ)に展示されている8体の仏像は、山頂や室堂から下ろされたものである。そしてもう一箇所、こちらはあまり知られていないのだが、尾添(おぞう)の白山社に、12体の仏像と半鐘一口が安置されている。これらは、石川県側から白山に登る加賀禅定道の聖地である桧新宮(ひのしんぐう)や、上部の護応石、天池金剱宮にあったものだ。桧新宮の本地が地蔵菩薩であったため、地蔵菩薩立像が七体と多い。実はもう一体あったのだが、昭和59年に北陸電力が発電所建設記念として桧新宮を再建したため、その地へ返された。

尾添白山社の扉は普段は閉められている。管理する林源常さんに頼めば開けてくださるが、いかにも村人によって守られているというふうで奥ゆかしい。林さんの話によると、尾添は区として下山仏をもらい受け、政府の目をそらすために神社を建てて安置した。それからは、鎮守の神である加宝神社を「下の神様」、高台に建てられた白山社を「高の神様」と呼んで、丁寧に祀ってきたという。

下山仏が並ぶお堂の中に、金庫が一つ置かれている。中には、鎌倉時代の十一面観音像の頭部を、江戸時代中期の胴部につないだ観音像が入っている。厨子の由緒書には異国の渡来仏として信仰されていたことが記されているが、尾添の口伝によると、飛騨の婆が延棒にしようと盗み出したが、首だけが桧新宮に帰ってきたとのこと。それで、また盗まれては大変と、金庫に入れているそうだ。毎年7月18日の白山まつりの日に開帳される。こんなところにも純粋な信仰が垣間見え、微笑ましい。

尾添を流れる尾添川は、加賀禅定道における結界であったといわれる。尾添の密谷家に「泰澄和尚伝記」の最も古いとされる写本が伝わり、林家に白山牛王印(ごおういん)の版木が保管されていることも思えば、白山という聖地への入り口である尾添に、下山仏が留まる必然性があったようにも思われる。

(2004年6月記)


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↑白山下山仏社 2016年9月1日

2013年4月11日 (木)

「なた」と水信仰、そして花山法皇の伝説

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 花山(かざん)法皇、といってもご存知の方は少ないかもしれません。では、安倍晴明が仕えた天皇、といえばある種のイメージはふくらむでしょうか。陰陽道のスーパースターとして現代の若者たちに人気の安倍晴明が、寛和2(986)に「帝が退位なさる」と予知した、その帝が花山天皇でした。

 花山天皇(第65代天皇、968生~1008没)は、藤原氏が骨肉の勢力争いを展開する中にあって、数え年17歳で即位しました。しかし在位期間はわずかに2年。藤原兼家・道兼親子の策略によって出家させられたのです。安倍晴明は天の異変によってそれを察知しましたが、時すでに遅く、阻止することはできなかったといわれています。

出家して法皇となってからの事跡は、中央の歴史書等にはあまり詳しく書かれていません。退位したその年に播磨国(現兵庫県)の書写山で性空上人と対面したり、比叡山へ登ったり、熊野で修行したりしたことは確かなようです。しかし西国三十三所観音霊場の設定をしたという有名な伝説は、事実とは認め難いといわれています。

さてその西国三十三所観音霊場の一番札所である那智山と、三十三番の谷汲山のそれぞれ一字を使った「那谷(なた)寺」という寺が、石川県小松市にあります。縁起書によると、名付けたのは花山法王だそう。そして那谷寺だけでなく、小松市とその隣の加賀市には、法王の足跡が数多く残っています。

小松市の郷土史家・山本佐一さんの『花山法皇の伝承』に詳しく記されている数々の伝承地の中でも特に興味深いのは、小松市菩提(ぼだい)町にある陵墓です。菩提には花山法皇の行在所があったとされ、法王はそこから向いの山を眺めて「あの頂上に葬ってほしい」と願っていたそうです。村人たちは法皇の死後その山に埋葬して菩提を弔った。菩提という地名もそこから生まれた、とのことです。

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現在公式な花山天皇陵は、京都市北区の紙屋上稜です。しかし菩提の人たちは千年の間法皇の山を守り続け、ふもとの花山神社に法皇の姿を模した神像を祀ってきたのです。その神像が僧形であったため、神仏分離を唱える明治政府に没収されることを恐れ、新しく神像を作ってそちらを調査官に見せるということまで行っています。

また、大正2(1913)に行われた花山神社の遷宮式では、御神函の扉を開けた大工さんの身に不思議なことが起こったとか…。そのお話は、角政二著『増補 小松の生いたち』に書かれています。この角さんの本は、小松の歴史に伝説もおりまぜ、「こどもさんでもおもしろくよめるように」書かれています。とても素敵な本だと思いますので、ちょっとご紹介しました。

 さて、那谷寺の現住職・木崎馨山さんによると「なた」という言葉は、アイヌ語で「水を統治する」という意味があるそうです。そして水と関わり深い観音信仰、さらに白山信仰の寺が那谷寺です。西国三十三所にちなんで名付けたという説はそのまま信じることはできませんが、花山法皇が「なた」を中心とする地域に滞在したという伝承が残ることには、何か特別の意味があったのかもしれません。そういえば、安倍晴明に由来する土御門神道本庁がある福井県名田庄(なたしょう)村にも「花山法皇が安倍家に賜った地」という伝承が残っています。

 弁財天やヒンドゥー教のサラスバティーなど、アジアでは水の神は芸術学業の神とされ、さまざまな伝承や信仰と習合していく場合が多いようです。花山法王の場合も、和歌や絵画、工芸、建築などに創造性を発揮した「風流者」であったと、後の文学的歴史書『大鏡』は絶賛しています。

花山法皇は芸術学業に秀でた人。そして中央での政権争いの犠牲者。このような「才能豊かな愛すべき犠牲者」が、日本では民衆信仰と結びつき、不思議な伝承として生き続けることが多くあります。特に、都とは異質の文化を育んでいる地方に。

南加賀でも、なた~水信仰~芸術的感性~観音信仰~白山信仰~花山法王~ と何層にも重なり合い、結び付き合っています。この興味深い関係図、読み解き方もいろいろありそうですね。

 

2013年3月25日 (月)

小松城の埋蔵金!! 前田利常の軍用金が…

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↑「こまつ・のみホームニュース」に掲載

 (1993年1月8日発行)


 大正2年(1913)89日、熊本市の本田寿太郎という人が、小松城の埋蔵金発掘願いを、当時の石川県知事・坂仲輔に出しています。その内容は次のようなもの。

   官有地内に埋金あるを採掘願

今般私儀、石川県能美郡小松町旧城址地内において、元前田中納言様(注:加賀3代藩主・前田利常)居城の折、軍用金として数多くの金塊を、殿のお側付きを勤めておりました私の祖先・小西正由ほか五名に密かに命じて、他人に知らさず、深夜、居室の畳を起こし、床下に穴を掘り続けること数ヵ月。ようやく埋め終わり、酒宴を賜りましたが、正由は身に危険を感じ、大便にことよせ宴席を退去し、すぐに帰宅しました。そして虚無僧の装束を着て夫婦連れで亡命し、熊本に至り、今日まで子孫連綿として続いております。ほかの五名は酒宴後毒殺されたと伝え聞きます。

 正由は臨終の際、相続者を枕元へ呼び、人払いをして遺言しました。軍用金が埋まっている場所を詳細に述べ、兄弟や他人に話してはいけないと戒め、代々相続者に伝言し、時機が来たら採掘を出願せよ、と。

 私の父源太郎は、城跡は民有地になっているものと考え、買い求めるための予備金として少なくとも五百円は必要と思いつきました。財産もない父にとっては至難中の至難だったでしょうが、明治元年から同二十一年七月までに百八十五円を貯蓄して亡くなりました。

 「なにとぞ兼ねての本望を達するように」との父の遺志を継ぎ、私は大正二年六月までに、寒暑をいとわず昼夜の別なく働き三百三十五円を貯蓄しました。

 小松町に来て調べたところ、官有地になっていました。つきましては採掘をして埋蔵金の有無を確かめたく思います。建築物には関係ない箇所なので、お許しください。なお、

掘り起こした所は原形の通り、自費で復旧工事をしますので、なにとぞお願い致します。

 以上の意味のことが書かれ、最後に「滞在所、金沢市柿ノ木畠旅人宿、蛭川方にて」と記されています。しかしこの発掘願いは、石川県内務部によって「詮議不相成候也」と一蹴されました。

 小松市の郷土史家・白江勉さんが、小松市立図書館勤務の折にこの文書を見つけ再調査。平成3年発行の「小松文芸」や、平成4年発行の自著「名字のふるさと」に発表しています。

 白江さんによると「大正2年は政情不穏な年で、まず坂県知事が茨城から転任してくる。そして県首脳部の人事異動と続き、中央では桂内閣が自滅し山本権兵衛に代わる。犬養、尾崎を金沢に迎えての憲政擁護大会、北陸線全線開通などテンヤワンヤだった。そんな時だったから、金塊発掘などという夢物語には貸す耳を持たなかったのでは」とのこと。

 失意の本田寿太郎さんは、小松市八幡町の茶屋を訪れ一服した後、風呂敷包みを置いたまま立ち去りました。その中味が、請願書等一式の書類だったのです。

 その後、八幡の茶屋は食料品店になり、店主・地島幸次郎さんは、文書一式を小松新聞社に持ち込みます。そして昭和43年に、小松新聞社から私立図書館へと渡りました。

 白江さんは、熊本市役所や熊本の新聞社に照会し、本田寿太郎さんの遺族を探しましたが、結果は「転居先不明」。

 小松城の跡地には、今も金塊が眠っているのでしょうか。そしていつの日か、日の光を浴びることが……。

2013年3月23日 (土)

「義仲寄進状」を書いたのは謎の美女 !?

まずは、芭蕉「おくのほそ道」の「小松といふ所にて」から。

 この所、多太の神社に詣づ。実盛が甲・錦の切れあり。往昔源氏に属せし時、義朝公より賜はらせたまふとかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊唐草の彫りもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打つたり。実盛討死の後、木曾義仲願状に添へて、この社にこめられはべるよし、樋口の次郎が使ひせしことども、まのあたり縁起に見えたり。

  むざんやな甲の下のきりぎりす

 芭蕉が「多太の神社」で見た「実盛が甲・錦の切れ」「木曾義仲願状」は、今も多太神社に残っています。国の重要文化財に指定されている「実盛の兜」は、芭蕉の「むざんやな……」の句と共によく知られていますね。しかし今回ご紹介したいのは「木曾義仲願状」の方です。これは多太神社では「義仲寄進状」として大切に保管されています。

 読み下し文の中から少しご紹介しますと、Kabutoblog_2

夫れ八幡大菩薩は源家宗廟の洪基なるを以って、国土擁護の霊神なり。

 から始まり、実盛の死について

ああ苦しきかな。某甲は公と父子の約を執ること僅かに七日、もう極の悲しみは其れ誰が為なるや。乃ち公の菩提及び義仲祈祷所に甲を披き、錦の直垂、並びに某甲の表指箭を能美郡の多太神社に納む。

 そして最後に

寿永二載五月二十一日

源 義仲

多太社之神領蝶屋荘十三町の処は之を永代に守るべきものなり

樋口次郎兼光 之を承る

宰宮司殿

 寿永二年は西暦一一八三年。旧暦五月二十一日に加賀国篠原(現石川県加賀市篠原町)で、源義仲軍と平維盛軍の戦いがあり、そこで平家の老将・斎藤実盛が討死しました。この実盛が、実は源義仲の大恩人であったことから、義仲は「ああ苦しきかな」と嘆いたわけです。

 斎藤実盛は、もとは源義朝(義仲の伯父)に仕えていましたが、源氏の内輪もめで源義賢(義仲の父)が討たれたとき、幼い義仲を木曾へ逃がしたのです。つまり実盛がいなければ義仲は生きていられなかったかもしれない。まさに命の恩人です。その後、実盛が別当(長官)を務めていた武蔵国長井荘(現埼玉県熊谷市)が平氏の領地となったため、実盛も平氏方の武将となりました。それで篠原の合戦では、平維軍の一員として戦ったのです。

 実盛七十三歳、敵に侮られぬよう白髪を黒く染め大奮戦。最後の一騎打ちの相手は手塚太郎光盛(漫画家の手塚治虫のご先祖だとか)。光盛に討ち取られた首をみた義仲は「これは斎藤別当ではないか」と気づきますが、それにしては髪が黒いのが解せぬと、実盛と親しかった樋口兼光を呼びます。兼光は一目見るなり「あなむざんや、斎藤別当にてそうろう」と涙を流し、その首を洗わせたところ、白髪が現れました。義仲は恩人を死なせたことを知り、人目もはばからずに泣いたそうです。(ちなみに、芭蕉はこの「あなむざんや」を句に取り入れたのだとか)

 義仲は樋口兼光に命じ、源氏の守護神である八幡神を祭る多太神社に実盛の兜を贈ります。同時に、蝶屋荘(現石川県白山市、旧美川町地内)を神領として寄進(後の一向一揆で失われたそうです)。そのときの「寄進状」が前述のもので、その五百年後に芭蕉がみた「木曾義仲願状」と同じものと考えられます。そして芭蕉から三百二十数年後の今、多太神社宝物館(要予約)では、実盛之兜保存会会長の中山哲郎さんが、兜や寄進状について丁寧に説明してくださいます。

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 中山さんは、多太神社に残る膨大な資料を調べている時に「諸国一宮巡詣記」という書物を見つけました。これは、江戸時代前期の神道家である橘三喜が、足かけ二十三年をかけて全国の一の宮を巡った記録です。多太神社は一の宮ではありませんが、元禄九年(一六九六)八月に訪れています。ちなみに芭蕉が訪れたのは元禄二年七月。「おくのほそ道」が刊行されたのが元禄一五年です。

 この「諸国一宮巡詣記」では、三喜が多太神社の神主内記所で聞いた話として「義仲の送状、山吹女が書けるよし。山吹は実盛が娘なり」と書かれています。中山さんはこの記述を見つけ「江戸時代の初期までは、義仲寄進状の筆を執ったのは『山吹』で、山吹は斎藤実盛の娘だ、という言い伝えが残っていたのだろう」と考えました。

 で、山吹って? 「山吹は源義仲の便女(びんじょ)です」と中山さん。便女というのは文字通り便利な女、という意味で武将の身の回りの世話をする女性だそう。妻とは違う位置づけらしく、義仲の愛妾として知られる巴御前も実は便女です。平家物語の「木曾最期」の段に「木曾殿は、信濃より、巴・山吹とて二人の便所を具せられたり」と書かれています。山吹に関する記述はこれくらいしかありません。

 小説家の海音寺潮五郎さんは、山吹は信濃の諏訪神社の神官・金刺盛澄の娘だろうと推定しています。金刺盛澄は、実盛を討った手塚光盛の兄ですから、この説を採ると実盛は山吹の叔父さんに討たれたことになります(あ~ややこしぃ)。しかし「諸国一宮巡詣記」によると、山吹は実盛の娘、なんですね。少なくとも江戸時代初めまでは、そういう話が伝わっていた、ということでしょうか。

 今回、中山さんが山吹に関する資料を発見したことによって、斎藤実盛と木曾義仲、そして芭蕉まで、多太神社にまつわるお話がいっそう興味深くなりました。みなさんも是非一度、多太神社を訪ね、中山さんのお話を聞いてみてください。

2013年1月28日 (月)

白河上皇が激ホメした「天田の餅米」

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平安時代、加賀の国の「国府」は現在の小松市国府地内にありました。今で言う県庁所在地、県都が小松だったというわけです。その期間、約400 年。すごいじゃありませんか。特に白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の院政時代には、加賀国府がかなり重要な場所と認識されていたようです。
小松市国府地域に、こんな話が伝わっています。 

~ 加賀国府の天田(てんだ)では、昔から良質の餅米がとれる。近郷でもこの餅米の人気は高く、お祝い事には天田の餅米を用いるのが最上だとするならわしがある。言い伝えでは、その昔この地の餅米で餅をつき、時の帝に献上したところ、帝は「唐・天竺に行ってもこんなうまい餅はない」と喜ばれたそうである。~

ここに出てくる「帝」というのが、白河上皇らしいのです。そして、白河上皇に餅米を献上したのが、時の加賀守(かがのかみ)で上皇の側近でもあった藤原為房。その為房が片腕として信頼し、加賀国に派遣していたのが、平正盛です。清盛のお祖父さんですね。大河ドラマ「平清盛」では中村敦夫さんが演じていました(ちなみに白河上皇は伊東四朗さん)。為房が加賀国司として赴任していた様子は『為房卿記』に書かれていますし、『平家物語』の「南都牒状」の段にも、正盛が加賀国司の検非違使として赴任していたことが記されています。おそらく正盛が段取りをして、白河上皇に餅米を献上したのでしょう。

平家一門の栄華は、この正盛から始まりました。「伊勢平氏」と言われて伊勢国に地盤があった一族ですが、為房・正盛以降、「院の近臣」と言われる上皇の側近が加賀国司を歴任しているところをみると(たとえば藤原家成:大河ドラマでは佐藤二朗さん、藤原俊成:百人一首撰者の定家の父)、上皇にとっても平家にとっても、豊かな加賀国は重要な経済的基盤になっていたと考えられます。

(歴史研究家・後藤 朗さんからご教示いただきました)

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白河天皇陵に天田の餅米を献上する
生産者の嵐さんご夫妻

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