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2017年2月26日 (日)

よみがえる山の魂 ~深瀬でくまわし~

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 今年(平成29年・2017年)、久しぶりに「深瀬のでくまわし」会場を訪れた。深瀬の檜細工の技を継承しようと頑張っていらっしゃるKさんから「でくまわしの練習を見に来て」と誘われたからだ。
 石川県白山市深瀬新町の「でくまわし保存会館」で、保存会長さんや事務局長さんから、でくまわし存続のために苦労されているお話を聞いていると、二十数年前にお会いした廿日岩(はつかいわ)さんのことを思い出した。保存会館には、亡くなった歴代太夫の写真が飾られている。そこに廿日岩さんのお顔もあった。

 廿日岩さんのお話をもとに、深瀬のことを調べた記事「よみがえる山の魂」(龍文社発行「リトルトリガー」1995年)を、ここに掲載する。

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よみがえる山の魂


手取湖

 金沢から鶴来街道を白山スーパー林道(注 現・白山白川郷ホワイトロード)へ向けて走り、勝山へ抜けるように157号線に沿って右へ曲がると間もなく手取湖に出会う。凍結さえ注意すれば冬でも何ら支障のない、除雪体制も万全の立派な道である。

 手取湖はダムのためにつくられた人造湖である。手取湖に限らず、山中に車を走らせると日本中でこのような人造湖に出くわす。これら人造湖の底には長い歴史を持つ村落が廃墟となって沈んでいる場合が少なくない。

 山に棲む人々人は川に沿って集落を形成した。川沿いのわずかばかりの平地が人が棲むのに適しており、そして同時に、ダムにとっても最適の地形だった。石川県の尾口村と白峰村(注 両村とも現在は白山市)にダム建設の話が持ち込まれたのは昭和41年のこと。翌年には水没予定の集落にダム対策委員会が組織され、調査や話し合いが重ねられた。

 住人の補償や移転先が決まり工事が始まったのは昭和49年。ダムは53年に完成。二つの村にまたがる巨大な手取湖は、翌年6月から貯水を始めた。


檜笠


 檜を薄く細い板にし、これを編んでつくる檜笠は尾口村の特産、というより今では民芸品のように紹介される。尾口村で他の二集落と共にダム湖底に沈んだ深瀬の集落では、以前は冬のあいだ村中が檜笠作りに取り組む産地であった。江戸時代のはじめに始まったと伝えられる檜笠づくりだが、昭和
5年には「深瀬檜笠販売購買組合」が結成され、その後は詳しい資料が残っている。

 昭和6年から水没するまでは、50数軒から70数軒と年毎に変動する村落のほぼ全戸が檜笠づくりに従事している。年間の生産量はおよそ6万枚から15万枚、まさに深瀬は檜笠の村だった。北陸三県の農家からの需要に生産が追いつかないことも多かった。

 檜笠は普段は風通しがよく、雨にぬれると材が膨らんで網目が締まる。また檜は油分が多いので雨をよくはじき、今でも人気が高い。山の産業として忘れられない焼畑(薙畑)でも、「火入れ」のときには顔を隠して熱さを防ぐ必需品だった。かぶってみると軽く、どこか安堵感がある。

 笠の原材料となる檜は、昔は近くにたくさん生えていた。深い山に生える、細くて曲がった建材にならない木で充分である。その檜が減ってきたため、明治初年からは越前(現在は岐阜)の石徹白村などから求めるようになった。昭和のはじめは奈良から買っている。

 ダム建設による移住とともに檜笠ををつくる人は激減した。今ではわずか34人。尾口村深瀬で作り続けているのは廿日岩仁吉さん夫妻だけになった。

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深瀬の村のくらし 

 廿日岩さんの家は水没した村落のすぐそばの高台の新住宅地に移った5軒のうちの一つ。大多数は鶴来、金沢などの平野部、町に移転した。以前の建物をそのまま高台に移した廿日岩さんの家の裏手からは水没した「故郷」をおおう湖面がすぐ下方に見える。

 水没する以前の深瀬は、手取川の支流、牛首川にそった細長い、小ぢんまりとした集落だった。

「慣れないものはびっくりすることもあったが、川べりに建つ家は水の音がさらさら、ごうごうと聞こえ、とてもいいものやった」

 廿日岩さんは懐かしそうに語る。

 昭和9711日、おおぜいの流出者を出した痛ましい大水があった。後々まで同日を水害祭として供養している。しかし、ふつうは洪水で浸水する家は決まっており、水が出そうになると道具を運ぶなど実に手際よく近隣の人たちで手助けをした。川が、生活の一部となっていた。

 昭和の頃の村の年中行事をかいつまんでみよう。新暦11日よりも旧正月を大切に祝う。大正10年の大火にちなんだ焼け祭り、春や秋(重陽)の節句、真宗の行事である「御忌」や「ほんこさま」「御仏事」、8月の新盆よりも9月の盆が盛大で、前日の宵盆を含めた4日間は大がかりな行事が行われた。その他お彼岸など、すべて自然に溶け込んだ旧暦中心で動いていく。

 死者が出ると、しきたりに従って葬儀が営まれた。それなりにある貧富によって、家の前の葬儀の飾りなどに差がつく。身分の区別というよりは、むしろ貧しい人が必要以上に出費をしなくて済むような知恵だった、という。そして村人全員が野辺に送る。

 だれが指導したというわけではないのに、深瀬の村は連帯感が保たれていた。二百人くらいの村の規模は、一体感をもって助け合って暮らすにはちょうどよいのかもしれない。庄屋を輪番にするという、その昔は画期的な制度をとっていたこともある。


鱒が踊る川

 

 主食は稗だったが、ふもとの鶴来で買った米を73に混ぜて炊いた。「うまいもんやぞ」廿日岩さんの言葉を待つまでもなく、焼畑の研究家なども山の農産物の美味しさを口を揃えて言う。稗や粟などは、大根などと同じく焼畑(薙畑)でつくったものも多い。

 夏は川に入って鱒を捕る。おもしろいほどよく捕れた。冬になる前に鶴来からにしんを買っておいて、大根に挟んでにしん漬けを作る。冬じゅう、それを食べていた。水がよい山では、堅どうふや味噌もうまい。

 熊をとるときのきまりもある。食用の肉だけでなく、内臓は大切な薬となり、毛皮も売れた。熊とりは大きな緊張感のなかで、何人もの人が、一心同体となって初めて可能な業だった。

 その習性をよく知っていた村人は、熊を捜して囲むと、息をあわせ絶妙の呼吸で声を出して威しながら山頂へ追い上げる。待ち受ける「鉄砲持ち」たちは、熊が23メートルのところへ来るまで身動き一つせず辛抱し、ぎりぎりのところで発砲する。鉛玉が2個入ったきりの、威力の弱い鉄砲である。


でくまわし


 深瀬の村では、毎年
130日は若い衆たちが集まって檜笠づくりで夜を明かした。この時ばかりは笠の代金は、そのまま自分の小遣いになった。夜通し笠を作りながら話すことといえば「でく」のこと。7日後にはでくを出すのだ。おのずと気分は高まる。「ぼくらみたいに好きなもんは、正月からでく出そう言うて年寄に叱られた」廿日岩さんは苦笑する。それだけ待ち焦がれた祭りだった。

 「でく(木偶)」というのは人形のこと。手も足も動かないでくは、役に立たない者の代名詞にされ、「でくのぼう」という不名誉な使われ方をする。しかし「でくまわし」のでくたちは、役に立たないどころか人々の暮らしになくてはならないものだった。

 一種の人形浄瑠璃である深瀬のでくまわしがいつ始まったのか、言い伝えによると、都から来た地方を巡業中の人形遣いの一行が伝えたものという。

 白山麓の人たちは冬になると関西方面へ出稼ぎに出かけたが、深瀬には檜笠という産業があったおかげで、冬も全員が村にいた。人形遣いの一行は他へ行っても観客がいないので深瀬に逗留、雪に閉じ込められて長の滞在となり、春になって帰るとき宿賃の足しにと人形を渡し、遣い方を教えた。

 こうして伝えられた「でくまわし」は、明治の初め頃までは新築や婚礼などお目出度いことがあった家で演じられた。その後、村の若い者たちが中心になって、毎年小正月の決まった日に、村の道場で盛大に行われるようになった。道場とは村の仏事が営まれる建物で、集会場の役割も果たしていた。現在の尾口村一帯は昔から浄土真宗の盛んなところだが、寺は一つもない。その代わり各集落ごとに道場があり、ここで日々の仏事が行われた。道場は村人たちの精神生活の拠り所ともなっていた。

 でくまわしは毎年2月の15日、16日、17日の3日間、夜7時から10時半頃まで行われるようになった。そのための稽古が、27日から14日まで毎晩行われた。檜笠づくりの仕事を終えて9時頃から道場に集まり、夜中まででくをまわす。古老たちが長年見てきた人形の動きと「古浄瑠璃」「泣きぶし」などど呼ばれる語りである。多くの目と耳で、正確に伝えられていった。

 女たちは舞台を飾る桜の花を白い紙でつくる。子どもたちは稽古の様子を眺め、昼は学校で真似をして遊んだ。この2月の十日間は、村中がでくまわしの雰囲気に包まれ、高揚した気分でいた。

 初日の15日は、午前中から舞台づくり。武者絵の額を掛けたり、白い桜の造花を飾ったり。外は二階までふさぐ雪だ。そして夜、本番。電気がない頃はろうそくの灯りで演じられた。

 高座で正装した大夫が、どこかなつかしい節まわしの「古浄瑠璃」を語る。素朴で単調な音の流れのなかに、耳について離れない何かがある。泣きぶし、という別名が似つかわしい。まわし手のどんどんと踏み鳴らす大きな足音とともに、横に長く張られた幕の上では人形が激しく舞った。小細工の利かない文字どおりの「でく」であるだけに、かえって迫力がある。道場中が、人々の熱気で特有な空気となっていた。

 17日、最後の演目が終わると、全部のでくを出して観客にも持たせ、歌に合わせて「でくのおどり」をする。さらに村人たちは道場いっぱいに広がって「千本づき」という民謡を踊った。

 深瀬の人たちは、このでくまわしによって絆を深めていた。


湖底に沈む村

 

 尾口村では、釜谷、深瀬、五味島の三集落が水没し、ダムによって孤立する鴇ヶ谷が廃村になった。村が造成したすぐそばの新住宅地に残ったのは深瀬の5戸だけ。あとは金沢や鶴来の町などへと散った。

 当時のダムについての補償交渉の過程も細かく書き残されている。「ただ反対すれば多額が取れるものでない。自己主張にも限度がある。最後の団結は心からの叫びであったのでないか。悔やみても悔やみたりない、いや忘却しよう。これからが出発である」最後はこんな感想で締めくくられていた。

 何百年にもわたる山の暮らしで自然と身についていた村の結束が、ダムによってたやすくこわれた。「ダムは人を悪くするもんやね」廿日岩さんの言葉が心に残る。ダムの起工式で当時の織田白峰村長は「多くの犠牲をはらってこの国家的大事業に協力はしたが、われわれはこの着工を心から喜ぶ気持ちにはなれない」と語っている。当時の村全体の感慨だっただろうか。

 深瀬58戸のうち、比較的まとまって移住したのは15戸。手取川の扇状地のその扇の要に位置する鶴来町の七原地区に「深瀬新町」が生まれた。そして、この新たな地で、三百年の歴史を持つといわれる「でくまわし」がよみがえった。


でくまわしの復活

 

 でくもまた、ダムと共に消える運命かと、人々は半ばあきらめていた。みなが散り散りになるのだから、でくをまわすといっても一体どこでどうすればいいのか……廿日岩さんはでくまわしの存続に賛同する青年たちとグループを作り、彼らに新たな地での再建を託したのである。

 昭和52年、深瀬新町で「でくまわし保存会」が再建された。保存会館も建てられる。そして同じ年、でくまわしは国の重要無形民俗文化財に指定された。翌年2月、移転後の第1回公演が行われ、でくは見事によみがえった。以降毎年上演されている。

 今年も218日の夜と19日の昼に深瀬新町ででくまわしが行われた。水没した深瀬の人たちが集まる。短くなった日程や演目、舞台装置など、昔どおりとはいかないでくまわしであるが、人形の舞いを食い入るように見つめる人、昔話に花を咲かせる人、古浄瑠璃を口ずさむ人、確かに今でもでくが深瀬の人たちの心をつないでいるのだと感じる。

 毎月第1・第3水曜日の稽古には、新しい町の人たちが加わり、本番にも参加している。子供の頃からでくと共に育った級深瀬の人に比べれば、古浄瑠璃の節まわしも人形の動かし方もまだまだ迫力不足であるが、しかし、その姿には好感が持てる。


山の魂


 「役場から援助のお金をもらえという意見もあるけど、金で壊れてしまうこともある。この先祖が残してくれたものを、壊すことはならん」廿日岩さんが執念をもって残そう、復興させようとしているのは、たんなるでくまわしだけではない。

 ダムが奪ったものは村であり、鱒が踊る川であり、そして純朴な人間関係だった。山の自然は、人と人の在り方を教える教師でもあった。廿日岩さんがでくで取り戻そうとしているのは、そんな人間関係である。一人一人の顔が分かり、欲もなく助け合った山の暮らし……。

 廿日岩さんとその家族に遭った人は、誰もが感じる、本当に温かい人たち、と。悪いものは悪いとはっきり言うが、攻撃はしない。人の心理をよく知り、悪用をしない。

 その吸い込むような目がきらきらと喜びを見せて輝く。ひょっとしたら、町の荒んだ人々の心を救うために山が放った魂かもしれない、そんなロマンチックな想像までしてみるのである。

 

 

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