文化・芸術

2013年4月11日 (木)

「なた」と水信仰、そして花山法皇の伝説

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 花山(かざん)法皇、といってもご存知の方は少ないかもしれません。では、安倍晴明が仕えた天皇、といえばある種のイメージはふくらむでしょうか。陰陽道のスーパースターとして現代の若者たちに人気の安倍晴明が、寛和2(986)に「帝が退位なさる」と予知した、その帝が花山天皇でした。

 花山天皇(第65代天皇、968生~1008没)は、藤原氏が骨肉の勢力争いを展開する中にあって、数え年17歳で即位しました。しかし在位期間はわずかに2年。藤原兼家・道兼親子の策略によって出家させられたのです。安倍晴明は天の異変によってそれを察知しましたが、時すでに遅く、阻止することはできなかったといわれています。

出家して法皇となってからの事跡は、中央の歴史書等にはあまり詳しく書かれていません。退位したその年に播磨国(現兵庫県)の書写山で性空上人と対面したり、比叡山へ登ったり、熊野で修行したりしたことは確かなようです。しかし西国三十三所観音霊場の設定をしたという有名な伝説は、事実とは認め難いといわれています。

さてその西国三十三所観音霊場の一番札所である那智山と、三十三番の谷汲山のそれぞれ一字を使った「那谷(なた)寺」という寺が、石川県小松市にあります。縁起書によると、名付けたのは花山法王だそう。そして那谷寺だけでなく、小松市とその隣の加賀市には、法王の足跡が数多く残っています。

小松市の郷土史家・山本佐一さんの『花山法皇の伝承』に詳しく記されている数々の伝承地の中でも特に興味深いのは、小松市菩提(ぼだい)町にある陵墓です。菩提には花山法皇の行在所があったとされ、法王はそこから向いの山を眺めて「あの頂上に葬ってほしい」と願っていたそうです。村人たちは法皇の死後その山に埋葬して菩提を弔った。菩提という地名もそこから生まれた、とのことです。

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現在公式な花山天皇陵は、京都市北区の紙屋上稜です。しかし菩提の人たちは千年の間法皇の山を守り続け、ふもとの花山神社に法皇の姿を模した神像を祀ってきたのです。その神像が僧形であったため、神仏分離を唱える明治政府に没収されることを恐れ、新しく神像を作ってそちらを調査官に見せるということまで行っています。

また、大正2(1913)に行われた花山神社の遷宮式では、御神函の扉を開けた大工さんの身に不思議なことが起こったとか…。そのお話は、角政二著『増補 小松の生いたち』に書かれています。この角さんの本は、小松の歴史に伝説もおりまぜ、「こどもさんでもおもしろくよめるように」書かれています。とても素敵な本だと思いますので、ちょっとご紹介しました。

 さて、那谷寺の現住職・木崎馨山さんによると「なた」という言葉は、アイヌ語で「水を統治する」という意味があるそうです。そして水と関わり深い観音信仰、さらに白山信仰の寺が那谷寺です。西国三十三所にちなんで名付けたという説はそのまま信じることはできませんが、花山法皇が「なた」を中心とする地域に滞在したという伝承が残ることには、何か特別の意味があったのかもしれません。そういえば、安倍晴明に由来する土御門神道本庁がある福井県名田庄(なたしょう)村にも「花山法皇が安倍家に賜った地」という伝承が残っています。

 弁財天やヒンドゥー教のサラスバティーなど、アジアでは水の神は芸術学業の神とされ、さまざまな伝承や信仰と習合していく場合が多いようです。花山法王の場合も、和歌や絵画、工芸、建築などに創造性を発揮した「風流者」であったと、後の文学的歴史書『大鏡』は絶賛しています。

花山法皇は芸術学業に秀でた人。そして中央での政権争いの犠牲者。このような「才能豊かな愛すべき犠牲者」が、日本では民衆信仰と結びつき、不思議な伝承として生き続けることが多くあります。特に、都とは異質の文化を育んでいる地方に。

南加賀でも、なた~水信仰~芸術的感性~観音信仰~白山信仰~花山法王~ と何層にも重なり合い、結び付き合っています。この興味深い関係図、読み解き方もいろいろありそうですね。

 

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