旅行・地域

2013年3月23日 (土)

「義仲寄進状」を書いたのは謎の美女 !?

まずは、芭蕉「おくのほそ道」の「小松といふ所にて」から。

 この所、多太の神社に詣づ。実盛が甲・錦の切れあり。往昔源氏に属せし時、義朝公より賜はらせたまふとかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊唐草の彫りもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打つたり。実盛討死の後、木曾義仲願状に添へて、この社にこめられはべるよし、樋口の次郎が使ひせしことども、まのあたり縁起に見えたり。

  むざんやな甲の下のきりぎりす

 芭蕉が「多太の神社」で見た「実盛が甲・錦の切れ」「木曾義仲願状」は、今も多太神社に残っています。国の重要文化財に指定されている「実盛の兜」は、芭蕉の「むざんやな……」の句と共によく知られていますね。しかし今回ご紹介したいのは「木曾義仲願状」の方です。これは多太神社では「義仲寄進状」として大切に保管されています。

 読み下し文の中から少しご紹介しますと、Kabutoblog_2

夫れ八幡大菩薩は源家宗廟の洪基なるを以って、国土擁護の霊神なり。

 から始まり、実盛の死について

ああ苦しきかな。某甲は公と父子の約を執ること僅かに七日、もう極の悲しみは其れ誰が為なるや。乃ち公の菩提及び義仲祈祷所に甲を披き、錦の直垂、並びに某甲の表指箭を能美郡の多太神社に納む。

 そして最後に

寿永二載五月二十一日

源 義仲

多太社之神領蝶屋荘十三町の処は之を永代に守るべきものなり

樋口次郎兼光 之を承る

宰宮司殿

 寿永二年は西暦一一八三年。旧暦五月二十一日に加賀国篠原(現石川県加賀市篠原町)で、源義仲軍と平維盛軍の戦いがあり、そこで平家の老将・斎藤実盛が討死しました。この実盛が、実は源義仲の大恩人であったことから、義仲は「ああ苦しきかな」と嘆いたわけです。

 斎藤実盛は、もとは源義朝(義仲の伯父)に仕えていましたが、源氏の内輪もめで源義賢(義仲の父)が討たれたとき、幼い義仲を木曾へ逃がしたのです。つまり実盛がいなければ義仲は生きていられなかったかもしれない。まさに命の恩人です。その後、実盛が別当(長官)を務めていた武蔵国長井荘(現埼玉県熊谷市)が平氏の領地となったため、実盛も平氏方の武将となりました。それで篠原の合戦では、平維軍の一員として戦ったのです。

 実盛七十三歳、敵に侮られぬよう白髪を黒く染め大奮戦。最後の一騎打ちの相手は手塚太郎光盛(漫画家の手塚治虫のご先祖だとか)。光盛に討ち取られた首をみた義仲は「これは斎藤別当ではないか」と気づきますが、それにしては髪が黒いのが解せぬと、実盛と親しかった樋口兼光を呼びます。兼光は一目見るなり「あなむざんや、斎藤別当にてそうろう」と涙を流し、その首を洗わせたところ、白髪が現れました。義仲は恩人を死なせたことを知り、人目もはばからずに泣いたそうです。(ちなみに、芭蕉はこの「あなむざんや」を句に取り入れたのだとか)

 義仲は樋口兼光に命じ、源氏の守護神である八幡神を祭る多太神社に実盛の兜を贈ります。同時に、蝶屋荘(現石川県白山市、旧美川町地内)を神領として寄進(後の一向一揆で失われたそうです)。そのときの「寄進状」が前述のもので、その五百年後に芭蕉がみた「木曾義仲願状」と同じものと考えられます。そして芭蕉から三百二十数年後の今、多太神社宝物館(要予約)では、実盛之兜保存会会長の中山哲郎さんが、兜や寄進状について丁寧に説明してくださいます。

Nakayamablog

 中山さんは、多太神社に残る膨大な資料を調べている時に「諸国一宮巡詣記」という書物を見つけました。これは、江戸時代前期の神道家である橘三喜が、足かけ二十三年をかけて全国の一の宮を巡った記録です。多太神社は一の宮ではありませんが、元禄九年(一六九六)八月に訪れています。ちなみに芭蕉が訪れたのは元禄二年七月。「おくのほそ道」が刊行されたのが元禄一五年です。

 この「諸国一宮巡詣記」では、三喜が多太神社の神主内記所で聞いた話として「義仲の送状、山吹女が書けるよし。山吹は実盛が娘なり」と書かれています。中山さんはこの記述を見つけ「江戸時代の初期までは、義仲寄進状の筆を執ったのは『山吹』で、山吹は斎藤実盛の娘だ、という言い伝えが残っていたのだろう」と考えました。

 で、山吹って? 「山吹は源義仲の便女(びんじょ)です」と中山さん。便女というのは文字通り便利な女、という意味で武将の身の回りの世話をする女性だそう。妻とは違う位置づけらしく、義仲の愛妾として知られる巴御前も実は便女です。平家物語の「木曾最期」の段に「木曾殿は、信濃より、巴・山吹とて二人の便所を具せられたり」と書かれています。山吹に関する記述はこれくらいしかありません。

 小説家の海音寺潮五郎さんは、山吹は信濃の諏訪神社の神官・金刺盛澄の娘だろうと推定しています。金刺盛澄は、実盛を討った手塚光盛の兄ですから、この説を採ると実盛は山吹の叔父さんに討たれたことになります(あ~ややこしぃ)。しかし「諸国一宮巡詣記」によると、山吹は実盛の娘、なんですね。少なくとも江戸時代初めまでは、そういう話が伝わっていた、ということでしょうか。

 今回、中山さんが山吹に関する資料を発見したことによって、斎藤実盛と木曾義仲、そして芭蕉まで、多太神社にまつわるお話がいっそう興味深くなりました。みなさんも是非一度、多太神社を訪ね、中山さんのお話を聞いてみてください。

その他のカテゴリー

フォト

リンク集から「こまいぬ日記」も見てね(^_^)

無料ブログはココログ

リンク集